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C. warneri f.concolor‘Santa Tereza’

「文章の構成」

ここのところ新しい上司に、ビジネス文書で2回ほど文章の構成を直されました。
そうです、私はまあ読める文章ができたらそこでお終いになっていました。
だから「最初に全体のことを言って、次に詳細、最後にまとめのほうがいいね」などと指摘されてしまうのです。

要は、相手に分かりやすく文章の構成を考える、という手順を踏んでいなかったのです。
文章を書くときは、まず最初に全体の構成を考えるのが良いでしょう。
そうでなければ一通り書いてからでも構成を考えて推敲すべきです。

特にビジネス文書では、相手がはっきり理解してくれなければ意味がありません。
当たり前なのにおろそかになっていた、だから本当にありがたい指摘です。
恥ずかし恥ずかし、気をつけます。


写真は昨年のサンシャイン蘭展の展示花です。
今年は今日から始まっていますね。
行けるかな、行けないかな。

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C. warneri f.concolor‘Santa Tereza’ サンシャイン蘭友会らん展 2011/5/28撮影
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C. trianaei fma.alba‘Aranka Germaske’

「繰り返される形」

ここのところ近代の日本人作家の本をいくつも読んでいて感じるのは、最近の小説にどんなことが書いてあってもどんな展開であっても、めったなことでは驚いてはいけないということ。
古くはギリシャ神話、聖書などで、物語というのは語り尽くされているのかもしれない。
シェークスピアの名作もある。
太宰治の小説だってギリシャ神話や聖書、チェーホフなどから着想を得たものがある。

これはつまらぬ例だが、以前、このブログにも書いた太宰治「トカトントン」で登場人物に「人生、それはわからん。しかし、世の中は、色と慾さ。」と言わせているのも、ほぼ同時期(正確には1年前)に発表された山本周五郎の「柳橋物語」にも「きれいな顔をして、乙に済ましたようなことを云ったって、人間ひと皮剥けばみんなけだものさ、色と欲のほかになんにもありゃしない」とあったりする。(当然両作品とも人間の動物的側面を登場人物に言わせているだけである。)
この「色と欲」だって、昔の神話やらシェークスピアやらにきっと同じことが書いてあるだろう。

もう一つの例だが、宮本輝「青が散る」には「テニスいうのはなァ、凄いスタミナとテクニックと、そのうえ精神力のいるハードなスポーツやぞォ。いっぺんやってみたら判るよ」というのがある。
これは、古来から言われるスポーツの心技体そのままである。

みんな、ある普遍的な何かをそれぞれの言葉で書き紡いできているのだ。
何が書いてあっても驚くことはない。
ただ、とはいえ、良いものは古今を問わず良いわけで普遍的な輝きを持っており、その表現法、芸術性など、その人ならでは、その作品ならではの新しさをたっぷりと味わえばよいのである。
その新しさからは唯一、驚きが生まれるだろう。


写真は藤沢さいか屋洋らん展の展示花です。

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C. trianaei fma.alba‘Aranka Germaske’ 藤沢さいか屋洋らん展展示花 2012/1/7撮影

C. trianaei‘Kotone’

荒木 経惟写真展「過去・未来 写狂老人日記1979年-2040年」

先日渋谷ヒカリエでアラーキーの写真展を偶然見ましたが、今度は清澄白河でやっているものを見てきました。
大きな倉庫の5階にギャラリーが三つあって、そのうちの一つで開催されていました。
平日夜なので、人はまばら、ギャラリーもそんなに広いわけではありませんでした。

展示されている写真は、アラーキーらしかったです。
アラーキーという人はズルいですね。
女性から私を撮ってっていう環境を作っている。
70才を超えても女性を取り続けている。
嫉妬しているんだな、私は。

ただアラーキーの、真実、すごいところは女性すべてを好きだということです。(これは本人がはっきり言っています)
一般に性格や器量が良かろうがそうでなかろうが、すべての女性を愛しているのです。
女性を愛し愛されているから、どの写真にもその女性の生き様や活力が現れています。
アラーキーの写真を見ているとやはりこうしたエネルギーは涸れないし尽きないと思います。

女性だけではないです。
花は蘭も多いですが、バラやガーベラ、パンジーなど何でもあり。
彼にとって写真は日記ですから、女性、花だけでなく空、車、線路、ビル、酒のつまみなどなんでもありです。
それがアラーキーと世界との関係なのです。

アラーキーついでに書くと、先日買った彼の写真論の本では、撮影技術としてのアングルとフレーミングについて述べられていました。
アングルは、その被写体が最も美しくなるようにその角度を探す。
フレーミングは、相手が嫌だったり、自分が嫌な部分は除く。
あっさりそれだけでした。
本質はそんなものなのでしょう。

自分が日記だと思って写真を撮るなら本当に自分の気のままに飾らずに撮ればいい、そう思いました。
それを芸術や芸能に高めていくならどうするか、それは課題として残るのですが。
でもいいや、芸術に芸術の味わいがあるなら、平凡には平凡なりの良さがあるはずだから。
と、写真を撮ることについて、多少なりとも関心が強くなって、写真論の続きをさて読もうかと思っています。


写真は藤沢さいか屋洋らん展の展示花です。

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C. trianaei‘Kotone’ 藤沢さいか屋洋らん展展示花 2012/1/7撮影

Chz. Miura Otome‘Kikoba’

「白い人」 遠藤周作

二度朗読を聴きましたが、あまり理解できませんでした。
ただ太宰治の「駆込み訴え」と同じように悪人(一言で言ってしまえばです)の視点から描くことで、神に仕える人のその愛の行為がよりいっそう引き立って見えるのかもしれないと思いました。
「白い人」では戦時下のフランスでナチスの側に取り入り反独運動者の神父を拷問した人の告白、「駆込み訴え」ではキリストを裏切ったユダの告白となっています。
私は無宗教なこともあって理解がなお浅いのだと思いますが、分からないなりにも響くものはあります。

湊かなえの「告白」という小説も流行って私も読みましたが、今思い返してみると告白調はスリリングさを増すためのようであって何が引き立っていたのか、何が言いたいのか分かりません。
当時、今のような読み方をしていなかったからでしょうから、また時間があれば読み直してみたいです。
「白い人」もまた時間が経ってから読みます。
とりあえず代表作「海と毒薬」を図書館で借りようと思います。


写真は藤沢さいか屋洋らん展の展示花です。

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Chz. Miura Otome‘Kikoba’ 藤沢さいか屋洋らん展展示花 2012/1/7撮影

カトレア(種名不詳)

「引用とオリジナリティー」

私はよく、書物から引用して文章を書きます。
目的は、言いたいことの説得力を増すためと、その言葉を記録に残すためです。
一般に日本人は、自分を出さず控えめであることを美徳としてきましたから、例えば結婚式のスピーチなどで自分の言葉としてではなく、昔の偉人の言葉を引用しつつ、新郎新婦を励ましたりします。(私の場合、この控えめは当てはまりませんが。)
もちろん説得力も増しますし、特に害もありません。

ただ、忘れてはいけないのは、オリジナリティーです。
引用した言葉を紹介するだけでなく、それによって自分がどう考え何を言いたいか。

また、理解が浅いのに引用と明記せず自分の言葉にしてしまうのは無論慎まなければなりません。
それは恥ずかしいことです。

なんでもかんでも引用ではなく、まずはオリジナルな体験や発想、言葉があってしかるべきと自分に言い聞かせなければなりません。


写真は、もう7、8年前にスーパーで購入したもので、頂き物以外ではもっともチープなカトレアですが、自分があまりにボロボロであった思い出と重なり合うため、ずっと育てています。
あの頃に比べれば、と思いつつ。

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カトレア(種名不詳) 2012/5/27撮影

C. trianaei f.coerulea‘Karen’

「むかしも今も」 山本周五郎

この小説もその素晴らしさに驚くほどでした。
山本周五郎という人は、ものすごい人なんだとつくづく思いました。
無知だなあ。

昼過ぎに図書館で美術全集のある部屋に初めて入り、ゴッホ全画集が存在することに驚き一通り眺め、これで美術展で知らなかったゴッホの絵を見てこんな絵もあるんだという発見の喜びもなくなるんだなとちょっともったいなく思ったりしつつ、またふらふらしていると黒澤明全画集というのもあってちょっと手に取ってみました。
見て読んで知ったことですが、黒澤明監督は山本周五郎を愛読しており、2002年の「海は見ていた」など何作かの映画が山本周五郎の原作のようで、その原作本と映画の両方を鑑賞しようと即座に思いました。

帰りに歩きながら、こうやっていろいろなつながりで本を読んでいくと尽きることがなく、本を読むだけで死んでしまうなと思ってしまい、ちょっと笑いがこみ上げてきて、それから少し空しいような気にもなりました。
空しいというのは、やっぱり短い文章でも小さな仕事でもなんでも自分でやるっていうことなしに、本を読み続けて死んでしまったらということです。
(そりゃ本を読み続けていろいろ味わってそのまま死ぬのもそんなに悪くはないですが)

でも山本周五郎の作品を読んで、江戸時代の庶民の激動の人生、貧困や天災や人情や恋愛を目の当たりにすると、自分の生活の甘ちゃん加減を振り返りますし、最近読んだ瀬戸内寂聴のコメント「今の日本人、90年間で最悪。人の痛み感じる心どこへ」などの言葉が思い出されます。

山本周五郎を読んで真面目になったり、太宰治を読んで不真面目を気取ったり、馬鹿みたいな自分で、君は何を拠り所に生きているんだ、と聞かれても黙ってしまいそうで恐いです。
拠り所があるようでいて、それはまだまだ弱くて脆いものかもしれないと思っています。


写真は藤沢さいか屋洋らん展の展示花です。

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C. trianaei f.coerulea‘Karen’ 藤沢さいか屋洋らん展展示花 2012/1/7撮影

C. trianaei

「柳橋物語」 山本周五郎

素晴らしい物語でした。
「言葉は恐いほど響く、しかし本当の愛は言葉ではない」
というのが主な感想です。
でも感想と言うよりは教えられたことかな。


写真は藤沢さいか屋洋らん展の展示花です。

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C. trianaei 藤沢さいか屋洋らん展展示花 2012/1/7撮影
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