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「僕らの大島日記」

15年近く前、カルチャースクールで「小説創作」講座を1年間受講していました。
故人である作家田久保英夫先生の講座でした。

講座は夜でしたから、仕事で疲れていつもうとうとしていました。(ああ、もったいない)
眠気と戦いつつ取ったメモも数年前の引越しで捨ててしまいました。
最も鮮明に覚えているのは、いつも両手を前に拡げて、身体の中にあるものを受講生に向けて放出するかのような姿勢で、ゆっくりと話をされていたことです。
お話された内容は今ではぼんやりしているのですが、「伝えたいことがあってそれを伝える」「良いものは良い。そこには賞があってもなくても関係ない」という意味のことであったかと思います。
いろいろな作家の短編をテキストにして講義は進みましたが、「このなかにはある」「そこにはある」というふうに、何があるのかの説明はないのに「ある」とおっしゃっていたと思います。
「ある」ものは「ある」のでしょう。

その講座では、年2回同人誌を作っていました。
「蕾」という冊子ですが、そこにエッセイを2回載せてもらったものを、つたないものですがここに一つ掲載します。
ちなみに「小説創作」講座でしたが、ただの一つも小説はできませんでした。


「僕らの大島日記」


格好良く坊やを諭す従弟が眩しかった。小学校低学年の夏休み、私と私の一つ年下の従弟は、山口県南東部の周防大島へと祖母に会うために、そして遊ぶために帰っていた。
自然のある田舎の遊びは一人でも楽しいが、仲の良い親戚の子供同士が揃うとますます面白くなるものだ。
彼は世話焼きで威勢が良く、寺のあちこちで鳴きたてる蝉やら、蜜柑の木にはり付いている髪切虫(当時この害虫は役場が1匹20円程で買い取っていた)やらの採集隊でも隊長で、だからまだ3つ4つの島の坊やにもなつかれていた。
その暑い日、蝉取りの後、帰る時がきてもまだ一緒に遊びたいと泣いてぐずる坊やに向かって、お母さんが心配するやろうもう帰らなあかん、と言い聞かせている彼の姿は、まだ母親に甘えるばかりの幼稚さでいた私の心を強く揺すぶった。
内向きで気弱、そしてその反動か他人には妙に醒めた格好をし始めたようなその頃の私だったが、彼が「あかん、あかん」ときんきん目の前で繰り返し、坊やも次第にうん、うん、などとべそをかきつつも頷いて、二人の熱いドラマを演じれば、さすがに自分も何か言わなくちゃと思うほどにせき立てられたと記憶している。
そして彼の言葉の端を拾っては、だめだよあかんのよ、なんて私は繰り返していた。

結局それからどうしたかは覚えておらず、彼とは中学の頃まで幾度かやはりその島で遊んだが、その後かれこれ十年近く会うこともなかった。

5月の連休に川崎の姉宅へ立ち寄った折、従弟が山口県光市でひと月前に海の事故で亡くなったことを聞かされた。20代も半ばの突然の死に対してただとにかく心がさわぎ何も考えることなどできなかった。しばらくの後、いつかの夏の情景と、もう会えなくなってしまったという言葉だけが代わる代わる頭の中に浮かんできた。私はそれをそのままに反芻しながら、ゆっくりと帰りの駅までの道を歩いた。

(同人誌「蕾」 1997年10月号)

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